「笹川くん、」
早足で歩く俺の後ろを小走りで追いながら、沢田は綺麗な声で俺の名を呼ぶ。
本当は沢田の呼びかけに俺はすぐさま振り返りたかったが、ここはあえて気づかないフリをして屋上を目指す。
「笹川くん、」
もう一度、今度は強く名前を呼ばれた。それにも俺は気づかないフリをし、ひたすら前を見つめる。
沢田、あと少しだ。あと少しで、見えるぞ。屋上まで、頑張って俺を追ってくれ。
階段に足をかける。
「ねぇ、聞こえてないの・・・?・・・笹川くん!」
一段、これを上れば屋上にたどり着くというところで、沢田の指が俺の飛び出ていたシャツを掴む。
ああ、屋上は目の前だというのに。
それでも、俺は後ろを振り返らず、掴む指からくる振動に気づいていながらも彼女に冷たく「・・・なんだ」と返した。
「・・・笹川くん、怒ってるの?」
そう言った沢田の言葉の語尾は微かに震えていて、今すぐにでも抱きしめてやりたかった。
掴んでいる指に力が込められ、俺のシャツが少しだけ引っ張られる。
俺に、自分の方を向いてほしいのだろう。そんな些細な仕草にも気づきながら、俺はまだ、振り返らない。
「笹川くん、違うよ・・・違うの・・・。持田くんは、違うの・・・っ」
さっきより震える声、指先。後ろを見なくてもわかる。沢田は今、きっと泣きそうな顔で俺を見ているんだろう。
必死に、言葉を紡いで、俺に許しを請おうとしてるのだろう。しかし、残念ながら、俺は別に怒ってはいない。
「私!せんせ、に頼まれて、たくさんプリン、ト持ってて、っそれで、あのっ、前が見えなくて・・・、」
沢田はそこまで言うと、少しだけだが、鼻をすすった。
ああ、沢田は泣いている。
俺は上を見上げながら、沢田の嗚咽交じりの言葉を聞き逃さぬよう耳に意識を集中した。
「それでっ・・・か、い段あっるの、知らなくて・・・、おちっ、落ちそ、うにっなって・・・っ!!」
そこまで言うと、ぱっ、一瞬にして放されたシャツ。次には背中に衝撃。
そして、細い腕が俺の腹に回された。その腕は必死に、俺を逃がさまいと閉じ込める。俺とは違う、それ。
俺なんかが握ったらすぐ折れてしまいそうなぐらい、細い。
目を細めその腕を見つめていると、沢田は俺の背中に頭を押し付けながら必死に声を絞り出す。
「もっ、持田くんは、それをっ助けてくれっただけなのぉ・・・!!だから、違うの・・・好きで抱き合ったわけじゃ、ない、っ・・・!」
尚も黙る俺に対して、詰まりながら、嗚咽をかみ殺しながら、泣きながら弁解する沢田が可愛くて、たまらない。
細く脆いその腕で俺を閉じ込めて放さない、そんな沢田が愛しくて、
誰にも見せたくない。
ああ、俺は、嘘を付いた。
沢田に触れるのは俺だけであって欲しいし、沢田が触れるのも俺だけであってほしい。
ああ、沢田。俺は怒っていないと思いながら、本当は怒っていたみたいだ。
しょうがないとはいえ、持田に抱きしめられた沢田に、無防備でドジな沢田に怒っていたみたいだ。
沢田に触れた、持田にも。
「私が、す、すきなのはっ」
ぎゅっ、俺の腹に回された腕を掴む。そのいきなりの行動に沢田はびくりと身体を震わせた。
その言葉は俺の目を見て、言って欲しい。そうすれば、俺は安心できる。
別に、沢田のことを信用してないわけではない、けど、俺に安心をくれ。
お前があまりにも可愛くて優しくて、皆の陽だまり的な存在で、儚くて脆い、そんなお前が俺でいいのか、とふと思う時があるんだ。
たまに、どうしようもない不安に駆られる。だからこそ、お前のその唇で、声で、瞳で、全身で、俺を安心させてくれ。
なぁ、沢田、お前は知っているか?
俺は持田だけではない、お前の弟にも嫉妬したことがあるんだぞ。
いや、むしろ、沢田の周りにいる俺以外の男にも、だ。
それは一度だけではない。何度もだ。
お前はこんな俺を知ったら、驚くか?喜ぶか?それとも、軽蔑するか?
なぁ、沢田。
こんなにも、怖いくらいに、お前を好きな俺がいるぞ。
「・・・沢田、放せ」
「っ!や、やだっ!」
俺の背中に触れている沢田の頭が小さく左右に揺れる。
沢田、沢田、沢田、
・・・・・・・・
もうダメだ。お前の顔が見たい。
白く、滑らかなその頬に流す涙を、俺に拭わせてくれ。
「、」
「っ!」
ぼそりと、沢田の名前を口に出す。
すると、沢田は大人しく、俺の腹に回す腕を解いた。
くるり、沢田の方に身体を向ければ、涙をぼろぼろ流す綺麗な沢田が俺の瞳を奪う。
ああ、何故お前はそんなにも綺麗なんだろうな
「ささがわっ、くっ・・・おねが、いっ・・・嫌わないでぇ、うっ、ひっぅ!!」
「俺が、沢田を・・・を、嫌うわけないだろう」
親指での涙を掬う。それを口に運べば、それはとても、しょっぱくて甘かった。
止まらず流れていくの涙を、何回も親指で掬ってみた。
それでも止まらぬ涙を、今度は舌で掬っていく。
擽ったそうには目を細めるが、やはり、止まらない。
近づけていた顔をそっと放し、
それに濡らされているの頬を両手で挟めば、その手にも手を添えた。
幸せそうに目を閉じるに
俺の、
折角屋上まで保とうとしていた、
黒い感情はいとも簡単に崩されて、理性をぶち壊して、
誰が来るかもわからない
屋上前の扉に、小さな肩を押し付けて、
お互い、貪る様に、息も忘れるくらいのキスをした。
このまま、溶け合えたら、と何度思っただろう。
しかし、それは誰にも何事にも神にさえも、
許されることのない俺の独り善がりな願い、だ。
Il Suo labbro lo rotea.
君の唇が紡ぐ
(愛してる。離れたくない、と涙ながらに語る君はあまりにも綺麗すぎて、残酷だ)